15 ― 王太子殿下走る (2/2)
この頃みこちゃんの匂いがおかしい……。
なんだろう?
そうだ、お母さんから舐めちゃダメって言われてた“薬箱”の匂いがするんだ。
好きな匂いじゃない。
その匂いが強い時は、みこちゃんは元気が無い。
この頃は散歩もお姉ちゃんかお母さんと行く。
みこちゃんと一緒がいいのに。
みこちゃんと一緒に皆と散歩に行けたら凄く楽しいのに。
早くしゃべれるようにならないかな。そうしたらみこちゃんに臭い匂いがするよって教えてあげられるのに……。
みこちゃんが帰ってこない。
なんで? どうして?
学校なの? ずっと部活をしているの?
みこちゃんの匂いがすごく臭い日に、皆でみこちゃんと出て行った。
僕だけお留守番だった。
みこちゃんは出ていく時に『タロ、すぐ帰ってくるね。すぐ帰ってくるから、いい子で待っていてね』って言ったのに。
僕、いい子にして待っているのに。
我儘なんて言ってない。
散歩もお姉ちゃんとちゃんと行ってる。
ブラッシングもちゃんとお母さんにしてもらっている。
ご飯も残さずちゃんと食べている。
嫌いな歯ブラシだって、怖いお風呂だった、ちゃんと我慢して頑張っているのに。
いい子にしているのに。
何でみこちゃんは帰ってこないの?
どうしてみこちゃんは帰ってこないの?
なんで、なんで、なんで……。
みこちゃん、みこちゃん、みこちゃん……。
会いたい、会いたい、会いたい……。
さみしい、さみしい、さみしい……。
― ― ―
飛び起きた。
「あ……」
自分が子どもの様にボロボロと涙を流していることに気付く。
涙を拭きながら視線を向けると、窓の外は少し明るくなってきており、夜が明けてきていることが分かる。
「夢? 寝ていた?」
まだ完全に眠気が覚めていないのか、現実感が無い。
どんな夢を見ていたのか、憶えていないのに、胸を締め付けられるような焦燥感と悲しみが残っている。
「タロ」
誰かが自分を呼ぶ声がした。
エルリーナに呼ばれて自分が“タロ”だと気づいた。
自分の中で自分の本当の名前が“タロ”なんだとすんなりと理解した。
その名を誰かが呼んだ。
辺りを見回すと、薄暗い部屋の中、少し高い位置に3人の人影があった。
人間ではないのかもしれない。半分透けていて背後の壁の模様が見えている。
普段だったら刺客や間諜かと、咄嗟に身構え、大声を上げて警備の者を呼ぶのだが、なぜか動くことができなかった。
懐かしかったから。
心の中に懐かしさが広がっていく。
「お父さん、お母さん、お姉ちゃん……」
父上でも母上でもない。自分に姉なんかいない。初めて会う人達。見覚えなんか無いのに、口から勝手に言葉が出てくる。
「タロ、付いてこい」
「タロ、こっちよ」
「タロ、早く、早く」
3人はゆらりと動きだす。
ベッドから飛び起きると、夜着のままその後を追う。
「待って。みんな待って」
この3人に付いていかなければならない。
付いていかなければ自分は大切な何かを失う。
強い想いに動かされ、3人の去った方へと扉を開け飛び出す。
待機していた護衛騎士達は、自分がいきなり出てきたことに慌てて後を追ってくる。
「殿下っ。どうされましたか! 殿下っ、お待ちください」
「王太子殿下っ! どちらに行かれるのですか? どうか私達をお連れ下さい。危のうございますっ」
後ろから声が聞こえるが、そんなことに構っている暇は無い。
3人を見失わないことに全力をかける。
3人はふわふわと浮かびながら移動していく。
凄いスピードで走る自分を、すれ違う者達が慌てて避ける。そして慌てて追いかけようとする。
何人かは立ちふさがって自分を止めようとするが、振り払うだけだ。スピードを下げることは無い。
「王太子殿下をお止めしろっ」
「騎士団長に連絡をっ! 王太子殿下が城から出ようとされているっ」
「騎士達は全員殿下に付いていけっ。殿下をお守りするんだっ!」
「殿下、夜着のままでございます。お召し物をお着換えください」
様々な声が王宮内に飛び交っているが自分の耳には何一つ入ってはこない。
ただただ走る。
王宮を抜け、そのまま走り続ける。
後ろには、何人もの騎士や侍従が付いて来ている。
どれぐらい走ったか、息は荒くなり汗が首筋を伝う。
目の前の3人は徐々に薄くなっていき、ライオネルの焦りは強くなっていく。
「待って、消えないでっ!」
「ホラ、もう少しだぞ」
「あと少しよ」
「あそこ、あそこ」
焦った自分にこたえるかのように、お姉ちゃんが指を指す。
そちらに目を向けると、箒を持ったエルリーナがしゃがみ込んでいるのが見えた。
泣いている?
まだこちらに気づいていないのか動かない。
「みこちゃんっ!!」
咄嗟に出た名前は一番愛しい人の名前。
会いたくて、会いたくて、やっと見つけることが出来た焦がれ続けた人の名前。
そのまま手を伸ばし、愛しい人を抱きしめる。
「みこちゃんっ、捜したっ、捜したんだっ。やっと見つけたっ!!」
上がる息のまま、思いのたけを叫ぶ。
離さない。もう二度と離さない。
「待っててって言ったじゃないかっ。すぐに帰ってくるって言ったじゃないかっ!」
抱きしめて、抱きしめて、ただ抱きしめて。
「タロ」
腕の中、小さく身じろいだ愛しい人は自分をそう呼んでくれた。
自分の名前。本当の名前。
嬉しくて、やっと笑うことができた。